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 SPECIAL!

お忙しい中、貴重な時間を割いて井上邦典先生(昭和42年度卒)に学生時代の
思い出について綴っていただきました。

柔道と私(昭和35年の思い出)


  昭和35年(1960年)、広大入学してすぐ部活は柔道部に決めた。というより、入学する前からすでに決めていた。
  柔道の経験はそれ迄なかったが、私の兄がやはり学生時代に柔道をしていて、帰省した時、田舎の大きな溜池の土手の草はらで練習台になったことや、人並みにもっともらしく大学生活のスローガンとして、勉強・ギター・柔道を三本柱としたかったためでもある。(実際はどれも中途半端か失敗に終わったが・・・。)


  私と一緒には同級生の平松恵一(現在は大先輩)、栗原敬之、松原正紘君が入部した。島本学先生、津久江一郎先生を始め諸先輩のもとで練習に明け暮れた。
  当時の部は、部長が薬理学教授の中塚正行先生、学4-島本、津久江、学3-小野文孝、
学2-林鷹治、井野口千秋、高田尚、土本泰三、山崎晃弘、学1-上田和明、山岡義文、進2-田村泰三、円山英明、本永満の緒先輩方と我々ホヤホヤの新入部員というメンバーだったとわたしの記憶に残っている。もちろん女性部員はいなかった。
  道場は現霞キャンパスの北東の一角にあったように記憶している。畳が少なく、狭い道場で、周囲の壁の一部からは石垣がのぞいていたように記憶しているが思い違いかもしれない。そんな中で私なりに一生懸命練習した。なにしろ初心者で体型も細く、人一倍の練習が必要だと自分自身痛感していたから。


  当時私は医学部生の中で唯一人大学教養部の学生寮に入っていた。医学部で学生寮に入った人のことを後にも先にも聞いた事がない。教養部は現在の皆実町の付属中・高校のキャンパスであり、講義もそこで受け、寮もその敷地内にあった。名前は”薫風寮”と呼ばれていたが、実態はご想像にお任せする。木造2階建てで、2棟か3棟だったと思うが、星の輝く夜でも2階から
雨が降り、1階の寮生には窓際に洗濯物は干せなかった。しかし、朝寝坊ができるなど、住めば都であった。
  8畳か10畳くらいの畳の部屋に同室者は教養学部生2名、理学部生1名、工学部生1名と私の計5名で寝起きを共にした。1人あたり2畳の広さしかなかった。5人分の布団を敷くと足の踏み場もないような状態である。本当にミカン箱を勉強机にもしていた。バイトで夜遅く帰る者もいた。私は例の三本柱のひとつギターで覚えたての”禁じられた遊び”を一晩中かき鳴らして”ウルサイッー”と怒鳴られたことも度々だった。あのころはずい分と無神経だったなと今では驚いている。
しかし当時、社会環境もおおらかであり、学部もちがうものの、仲良し5人組で何かといえばスキヤキコンパをしたり和気あいあいとした人間関係を保ち、大いに社会勉強をさせてもらった。
  寮費は一ヶ月いくらだったか忘れたが、朝食と夕食がついていた。しかし、二十歳前後の我々にはそれだけではとても足りなかった。しかも柔道の練習後ではなおさらであった。練習を終えて寮に帰り、予定の夕食を済ませる。そして午後9時ごろになると寮内放送が”残飯”の希望者を募る。医学部生ではおよそ縁のない環境の事と思われるかもしれない。”残飯”とは読んで字のごとく、夕食予定の寮生が外泊や突然の都合で定刻までに帰寮しない場合に余る食事である。それに在寮生が格安(無料ではない)でありつくわけである。いつも希望者が殺到し、くじ引きが行われ、倍率は高かった。しかし、当たったときのおいしさと満腹感は格別であった。


  話がずいぶん横道に逸れるが、大学の寮は古今東西を問わず学生運動のメッカでもあり薫風寮もまた然りであった。おりしも昭和35年は時の岸内閣による ”日米安保条約”改定の元年であった。当然学生たちの間にも安保闘争が吹き荒れ、薫風寮もその嵐の中に巻き込まれた。授業ボイコット(一般教養の文系科目のみ)、デモ行進や広島西警察署(現本通りの県民ホールあたり)前での24時間座り込みにも強制的にかり出された。日本全国安保闘争の真っ最中ではあったが医学部生としてはかなりつらいものがあった。そのうち医学部内へも安保闘争は浸潤してゆき、白衣のデモ行進も普遍になった感がしていった。さらにインターンボイコット、国試ボイコットや
ティーテルボイコットなどへとエスカレートしていった。はからずも私の思い描いていた私の学生生活と異なる異常体験となり内心は少し怖かった。
  安保闘争の末期となるころ教養部に県警機動隊が突入するかもしれないという情報が流れ、寮生はこぞって(24時間生活していることもあり)バリケードを築いたことも今は懐かしい思い出である。多くの歴史を刻んだその名物”薫風寮”も今はもちろん跡形もない。

  
  さて、本題に戻るが最初の入部が医学部の柔道部か本部のそれかいま定かではないが、わたしは本部にも所属していて、大学本部のある千田町キャンパスに練習に週何回か通った。皆実町と霞町と千田町とを結ぶ三角形が私の生活テリトリーであった。フェニックスの並木のある正門を入ったすぐ右手に体育館がありその道場で空手部、剣道部などと共同使用であった。
  当時本部の練習に参加していたのは本部でも主将を務められた島本先生以外では医学部からは私だけだったと思う。練習は医学部以上に、わたしにとっては厳しかった。特に基本的体力差を感じたのは車座になって腕立て伏せをするときいつも最後迄ついていけなかった事である。
  しかし部員は多く、他学部生の部員や先輩方と多く知り合えることもできたし、気持ちが広くなるようにも感じた。
 
  主将島本先生と並ぶ双璧的存在に鹿児島出身の教育学部4年生の水流(つる)さんがおられた。学生服姿が様になり、一般学生と変わりなかったが、いったん柔道着を纏うととまさに仁王ちの威圧感があり、まさに薩摩の快男児と思ったものである。一度か二度稽古をつけてもらったことがあったように思うがまるで岩のようだった。もちろん私にとって黒帯はみんなそうであったが。
  とにかく現在では全く見ることのできない詰襟姿が印象的だった。というのは、島本先生は学4でいつもスーツ姿で対照的に映ったから。
  他に豪快な柔道が身上の政経学部の山崎郷太郎さんとは特に親しく練習もよくつきあってもらった。学部は忘れたが鋭い背負いの得意な鈴川さん、国体出場経験ありの川口さん、いづれも2段以上で、他にも名前は覚えていないが多くの人と知り合い練習した。
  私は白帯の初心者であったが主将島本先生の後輩であること、医学部から練習に駆けつけていることなどから皆んなによくしてもらい、恵まれた練習ができたと思う。練習はきつかったが、充実して楽しい日々でもあった。

  そうこうしているうちに自分も柔道に少し慣れ力もついたように錯覚した。黒帯の先輩でも軽量級であれば一本取れるようになってきた。そんなある日の練習で、2段の先輩の大外刈りを気迫で耐えようとした。しかし肉体が耐え切れなかった。膝関節靭帯を傷めたのである。何かが伸びるような肉体的感覚とギリッという音が聞こえたように思ったが痛みはそれほど強くなかった。その日はその後も軽く練習したし、普通の歩行は大丈夫だった。
  しかし2、3日後に膝関節の腫脹を来し、整形外科にて関節穿刺を受け50cc前後の血液吸引をみたときはいささか動揺し、途方にくれた。大変残念だったが本格的柔道はやめざるを得なかった。三本柱のひとつで心の支えでもあった柔道がくずれた。一本がくずれると、あとの柱も足を引っ張られるように坂道を転げていった。専門科目にあがるとき単位が足りず無念の落第となった。
当時の自分の精神状態では堪えた。目の前が真っ暗になるという言葉を体験した。
  柔道を志した人間だから・・・と自分に言い聞かせたようにおもうが、落第した1年間をどのようにして過ごしたかよく覚えていない。語学に力を入れようとしたことがわずかに記憶に残っている。


  膝は日常生活ではほとんど不都合はなかったが側方向の負荷は本能的にさけていたし、もちろん下肢がもつれるようなことは避けていた。しかし遅れてあがった学部時代、学生と各医局との対抗でバレーボールの試合があった。あまりもつれることはないだろう。と思って参加したのが失敗だった。つい本気になりジャンプして着地するときに膝関節に側方向に力がかかり、折れるかと感じるほど真横に屈曲し激痛が走った。このときは本当に痛かった。
  相手チームには誕生後間もなかった整形外科教室で、初代教授の伊藤鉄男先生が幸い居られて、気遣って下さったことをよく覚えている。関節の引き出し現象陽性だったので靭帯損傷もあり当然手術の話も出た。ただ普段の日常生活ではあまり不便がないのでやはり手術しないことを私が選んだ。
  優柔不断の性格があらわれている。。今にして思えば手術を受けておればよかったと後悔している。そうすればもう少し人間がおおらかに、そして性格も大らかになれたのではないかと思うから。


  印象に残っている思い出の合宿練習がある。本部にも学部のにも参加したが、それぞれの思い出について。

  昭和35年学部夏季合宿が教養部体育館(現皆実町の付属高校)で行われた。柔道の練習はあまり記憶に残っていないが、練習後の夜の合宿(?)のほうが記憶に強く残っている。いわゆる社会勉強のひとつである。
  当時皆実町の銀座にもクラブやスタンドのネオンが輝いていた。今でも印象に残っているのがバー”アジア”とクラブ(?)”黒猫”という店だった。
  合宿期間中か合宿明けの打上げの日か忘れたが気分転換の休息を入れようということだったと思う。主将の島本先生はあまり乗り気ではなかったようにお見受けしたが、内心は私には判らない。他の部員は当然みんな積極的だったことはいうまでもない。そこでもやはり緒先輩の活躍ぶりを勉強させてもらった。
  自分は山口県の田舎から広島に出てくる迄アルコールはもちろんそういった夜の世界にふれたことはなかったので、私が一番興味津々で喜んでいたのかもしれない。当然私も積極的に参加・活躍し(この分は一人前?)、酒もおいしくごちそうになった。おかげさまで今では”広島の中心を流れる8番目の川”に呑みにいけるようになっている。大きな社会勉強としての合宿で、大変在りがたいことであった。


  一方本部の合宿にも参加した。これは冬季の強化合宿だったと思うが、昭和36年の正月明けに日本三景安芸の宮島で行われた。15日の成人式をはさんで4―5日間行われたと思う。
  足腰の強化鍛錬ということで早朝まだ雪の残る弥山までの山道を往復したり鳥居のそびえる海辺の砂浜で乱取り練習などを行った。どこで寝起きしたとか、屋内練習は境内の御堂でしたかどうかなどについての記憶は定かではない。ただ浜辺での練習の合間に炊出しがあり、ムスビとゼンザイをご馳走になり大変おいしかったことはよく覚えている。また食べ物のことで恐縮だが、当時は大学教養部の売店でパン1個9円、牛乳1瓶11円の計20円で軽く朝食を済ますことのできる時代であり甘くて温かいぜんざいはたいへんなご馳走であったわけで美味しくいただいた。

  本部の思い出にもうひとつ、各運動部に共通であったと思うが、暮れにダンパー(ダンスパーティー)が催されていた。
  新入生にもパーティー券の割り当てがあり寮生や級友に頼んで買ってもらったがなかなか捌けず(あまり人気なし?)困った。もちろんダンスは知らないので広電天満町電停前のダンスホールに前述の山崎郷太郎さん達と一緒に習いに行った。ダンスの腕前は一緒くらいだった。しかしパーティ―会場ではいつも壁の花ではなく枯木だった。けれどもなんとなくそこの浮き浮きした雰囲気は好きだったし楽しかった。
 

  歴史は流れ現在の柔道部は私達の時代に比べ格段の隆盛を極めている。柔道部出身者から教授が5名誕生されたことをお聞きし、びっくりしたがすぐに納得した。医学部柔道部の神髄を見せて頂いたと感じた。
  願わくば臨床、研究も大切だが、それらは助教授以下の方にお任せして、教授の先生方には学生や医局員の薫陶に腐心していただきたいと切に願う。 なぜなら柔道こそ心技体のすべてが求められ、先生方はその修練をしてきた方々だから。



  私自身はすでに還暦を過ぎた。身からでた錆とはいえ、挫折を何度も味わった無名の白帯部員OBが40年前の記憶をたどった。あのころに帰り、もう一度出直せたらというかなわぬ願望をこめてこの原稿を書いた。ただ他の部員OB諸氏のように柔道本分に関して公式戦や対抗試合などでの実績が何一つないことが残念であり心淋しい。順調にいっていればと思うこともある。
  しかし私にとっては短期間ではあったが人間らしい充実した中味の濃い学生生活と柔道だったように思う。結果的には人生60年のうちの短い青春時代、しかも”硬派の青春時代”(少し格好良すぎる?)だったと振り返って自負している。
  これは同時に島本、津久江両先生をはじめ学部・本部の柔道部員および多くの方々のおかげによるものである。このことを肝に銘じてこの40年間過ごしてこれた。本当に、心より感謝している。
  若い柔道部のみなさん、あなた方の一刻一刻を大切に。医学部柔道部の益々の活躍と発展を陰ながら祈る。


 昭和76年5月 

井上邦典
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